入寮する当日、妹が本人に手渡した手紙
広紀へ
今日私が言ったことは、貴方が私にしてきたことのほんの一部であって、もっと言えと言われれば
一日じゃ足りないくらいの思いをずっとしてきたってこと、もう一度言っておきます。絶対に忘れて欲しくない。
「引きこもり」だってこと、堂々と言えると言ったけれど、そういう兄を抱えている私や雄太に
とって、それがどれだけ辛くて恥ずかしかったか、想像してみて。 社会は貴方が考えているよりずっと厳しい所だって、私は貴方より１１年多く経験してきて立ち向かってきたから知っています。
世の中ボランティアじゃない。 手がない、足がない、体が動かない・・・それなら世間は「可哀相に」と言うのかもしれないけど
（でも実際、そんなハンディキャップを抱えている人に"可哀相"と憐れみをかけられるような生き方をしている人なんて見たことない）貴方は両親に五体満足に生んでもらっているでしょう。
外見は完全な"五体満足な一社会人"。それが何もやらずに"引きこもって"いるなんて、誰が可哀相なんて憐れんで理解してくれる？働きもせず、親に生きさせてもらって、昼過ぎまで寝て、起きて来ては母親や祖母に命令して
自分が気に食わないことがあったら物を壊したり、人を殴ったり、脅したりして人にストレスを与えて、寝る。
こんな毎日を過ごしていることを、どうして私と雄太は堂々と社会に表明出来る？社会は貴方をただの"なまけ人間、道楽人間"としか思わないし、実態は生まれたばかりの赤ちゃん以下の何者でもないでしょう
貴方は、私達の知らない辛い思いをしていたんでしょ。それが大したことじゃなかったとは言いません。でも、辛い思いをしたのは貴方"だけ"じゃないことを良く知ってください。
お父さんは、若い頃会社が倒産して妻と長男を抱えて路頭に迷いそうになった時、どれだけ悩んだか
想像できますか？永い間、言葉も通じない海外で一人っきりで、どれだけの苦労があったか、知っていますか？遠くにいていつも貴方のことを思って、貴方の幸せを望んで朝から晩まで働いていたのにその息子が自分の家族・両親を苦しめていたと知った時の父親の絶望感、どんなものか分かりますか？
お母さんは貴方のことで、どれだけ悩み傷つき苦しんでいるか分かりますか？
「もっと親身になって寄り添って僕のことを考えて欲しかった」といったけれど、お母さんは
世の中に存在するどの母親よりも、ずっと自分の息子のことを考え自分の息子の為に自分の人生を
犠牲にしていた。それが結果的には貴方にとって"最悪"だったけれど、死にたいと思う程自分の息子の為を思って色々なものを背負って頑張っていたのに、その息子に殴られ怒鳴られ体も心も傷つけられた母親の痛み、あなたは経験したことないでしょう？
世間の、お母さんに対する視線・態度だって厳しかった。それでも貴方を守ろうとていた母親の愛情、あなたは分かっていてその母親をあれだけ殴れたんですか？
何も悪いことをしていないのに、壁に血が飛ぶまで殴られ、挙句の果てに包丁までふりかざされた、いたいけな少年の心の傷と同じだけの傷を、貴方は人から受けたことがありますか？そんな兄のことを友達に聞かれて、何も言えなくて、一人で苦しんでいた雄太の心の葛藤よりも貴方の心の葛藤の方が辛かったと断言できますか？
言いたいことを言えない、したいことが出来ない、そんな家族を持って、彼がどれだけ他の家族が羨ましかったか想像できますか？社宅である兄弟に「お前、お兄ちゃんと仲いいか？いいな。」と
ポツリと聞いた雄太の心の叫び、貴方には聞こえなかったでしょう？
全然合う友達がいなくて学校へ行くのが毎日苦しくて、心を休めたいと思って帰る家には日々怒鳴り声と泣き声しか聞こえない、私の苦しみなんて誰にも言えないし誰も振り向いてくれなかった。私が苦しんでいたこと知らなかったでしょ？
大切な家族同士が目の前で憎み合い傷つけ合って壊れていくのをただ見ているしか出来ず、目と耳を
ふさいで過ごした中学３年間、貴方にありましたか？
他の家族が羨ましくて、幸せそうな家族が羨ましくて、幸せな人間が憎くて憎くて、そんな自分が悲しくて死んでしまいたいと思ったこと、ありますか？
「自分は苦しかったんだ！」と叫ぶなんて、簡単です。辛い思いをしていない人間なんて世の中に一人として存在しないんだから。でも、それを主張出来る権利があるのは、自分の力でそれを乗越えた者だけだと私は思っています。
貴方は何も乗越えてきていない。自分はそれから逃げるだけ逃げて、その苦しみの何倍、何十倍、何百倍もの苦しみを、一番貴方の
ことを大切に思っている家族に１１年間も与え続けてきただけ。
もうこれ以上我慢するのは、誰のためにも良く無いと決心しました。今までのカウンセラーの人は、「広紀君が自分の傷口をほじくりかえすのを暖かく見守ってあげましょう」なんて呑気なことしか言わなかった。「その過程で私達家族が傷ついたり、骨の一本や二本折られてもそりゃ仕方が無いでしょう、"家族なんだから"」なんてとぼけたことしか言わなかった。
でもそんなの絶対に間違っている。
そして案の定、それで何も進歩しなかった。全員傷を抱えたまま１１年間来てしまった。
今、私達家族の足元には、何もなかった"無"の１１年間しか残っていません。
でも長田先生は全く違った。本当に人間の心を持って貴方のこと、そして私達のことを理解してくださっていると初めて感じる
ことが出来ました。貴方を助けられるのは先生しかいない、１００％の信頼をもって貴方のことをお願い出来る方だと
確信しました。
私達４人全員の一致した意見。もうこの先生を信頼して助けていただかないと、貴方は二度と社会に出られないと確信しています。それほど私達は先生を信頼しています。
貴方を"病人"としてではなく、"一社会人"として見てくださったのは、先生が初めてだったから。
今まで４人全員がここまでの信頼をおける先生には出会えなかったけど、今回初めて出会うことが出来て、その先生が手を差し伸べてくださったから、今日貴方に新しい人生のスタート地点に立ってもらう為の場を持つ決心が出来ました。
人間には後ろを見ている暇はないし、過去はどうこう思っても二度と修正できない。後悔しても何も変わらない。やったことは二度と消えない。
貴方がしてきたこと、二度と消えません。一生死ぬまで"無かったこと"にはなりません。貴方が私達から奪ったもの、二度と帰ってきません。私達はそれを失ったまま、二度と手に入れることは出来ません。貴方が見ない振りをして顔を背けても、私達の心の傷はここにずっとあります。
でも、許すことは出来ます。 貴方は今日、自分がしてきたことに対して「言う言葉は無い」と言いました。「申し訳無かった」と言いました。そんな言葉は要りません。態度で示して。貴方の人生で証明してください。本当に申し訳無かったと思っているということを。
貴方が一社会人 として、誰にも迷惑かけず自分の力だけで生きて行っている姿を、私達に見せてください。
貴方が憎むことがあるとすれば、自分自身の人生から逃げ続けている自分を憎んでください。
今迄、一つだって自分で決めたことを遣り通したことはないでしょう？ それならば、今日家族・ご先祖様全員で誓った「先生にお世話になって頑張ります」という言葉を貫き通してください。遣り抜いて見せてください、兄として。
そして長田先生に「お前はもう社会で立派にやっていける。卒業だ。」と言ってもらってください。
その時に、私と雄太は本当に貴方を許せます。そして、本当に心の底から「お兄ちゃん」と呼べると思うよ。
でももし、それを遣り抜くことが出来ずに、また過去の過ちを繰り返して自分の人生から逃げてくるようなことをしたら、私達は絶対貴方を許しません。
憎みます。尊敬もできなければ兄とも呼びません。
自分の人生の幸せを他人が望んでくれている間に、見捨てられていない間に、覚悟を決めて幸せになって下さい。
今日聞いた言葉は、その覚悟だと認識しています。 嘘はつかないで。二度と家族の愛を裏切らないで下さい。
私は貴方の覚悟を信じています。
伊藤 典子