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親から届いた悩み相談の手紙

悩み相談の手紙

次女の不登校で悩んでおります。どうぞよろしくお願いいたします。
平成1年○月○日生まれ 中学1年生(13歳)女   宮崎絢香

絢香は、近くにある○○医科大学付属病院にて平成1年○月○日3252gで生まれました。
当時、主人は私と同じ職場に勤め、長女は幼稚園に通い、義父と義母は農業に従事しておりました。主人は事業関連(道路設計、建設等)の仕事に就いていたため、帰りが遅いことが多く、絢香のお風呂の世話等は、できない日がほとんどで私と義母で入れておりました。義母は農業の傍ら家事、育児を引き受けてくれていたので、この時期は、本当に大変だったと思います。私は職場復帰はしたものの毎日午前と午後に30分ずつ授乳時間をいただいていたので職場と家とを何回か往復する生活をしておりました。
この頃は長女が5歳で絢香が生まれるまでの5年間の間ひとりっ子のように育ってきていましたので、絢香に対してやきもちをやくことが多くあり、母親として悩んでおりました。

絢香が1歳を迎えるころには、だいぶいろんな意味で安定してまいりました。絢香も首がすわって、ハイハイを始めて、おすわりができて、歯が生え始めて一歩、二歩と歩き出し、いろんなことができるようになってきたのもこの頃です。ちょうどこの頃、伸びた髪を切り出かけたのですが、いくらか風邪気味だったのか、気管支炎にかかってしまいました。近くにある△△医科大学病院に一週間ほど入院することになってしまいました。経過は順調で無事退院することができました。

2才を迎えた夏には、おむつもとれ、自由に歩けるようになってだいぶお話しも上手になりました。色白で目がくりっとしたおしゃまで好奇心の強い子供でした。

3歳を迎える頃には、言葉がはっきりしてきてますますおしゃべりになり、愛くるしい顔立ち(親の欲目かもしれませんが)で人なつっこく私達家族のアイドルとなっていました。私はこの絢香の笑顔が大好きでした。この年平成4年○月、岐阜の本宅で両親が亡くなるという交通事故に見舞われ、5人の子供が残されてしまいました。私が嫁いだ家は、宮崎の分家で本宅に残された子供達は、私の義父の絢香の子供達にあたり、義父は、放っておくことができず、面倒を見る事を決心しました。高校2年生を筆頭に高校1年生の双子、中学2年生、小学4年生と5人の子供達の面倒を見るため、毎日本宅に泊り込むようになりました。本宅も農業を営んでおりましたので、田植が済んだばっかりの田んぼが残され、その他種のまかれた畑までも残されていました。本宅は、専業農家でそれで一家7人の生計を立てておりましたので、このままにしておくわけにはいかず、私達家族で何とかするより手段はありませんでした。自分の家の農業・農作業だけでも土曜・日曜を返上して、働いてでも間に合わないくらいでしたから・・・本当に大変でした。絢香は、来年姉と同じ幼稚園に入園させるつもりでおりましたが、義母も本宅の事で手一杯になってしまい、とても絢香の育児まで手が回らなくなってしまいました。義母は、泣く泣くこの年の6月中旬から保育所に入所させる事を承諾してくれました。(義母もあと1年絢香といっしょに居られる事を楽しみにしていましたので)私もここで退職する事ができたらよかったのですが私の給料も生活の一部となっておりましたのでなかなか難しかったのです。

平成4年○月○日3歳と1ヶ月程で絢香は、○○町立第一保育所に入所しました。
最初の頃は、行くのを嫌がったり、保育所でのお昼寝がうまくできなかったり、風邪を引いてしまったりと結構トラブル続きでしたが、だんだん日を追う毎に慣れてきた様子が伺えるようになってきました。保育士さんと家庭との連絡ノートの中にいろいろなことができるようになっていく様を書いていただいており、それに目を通すことが毎日の楽しみとなりました。(朝8時30分までに保育所にあずけ、夕方6時30分までに迎えに行くという毎日で絢香は実に1日24時間のうち10時間という長い時間親と離れ、生活していました) この頃は、家族1人1人が忙しい生活を送ってたため、衝突する事が多くなりました。私達夫婦もけんかをする回数が増えてきました。みんな忙しすぎて心に余裕が持てなくなっていたのだと思います。子供達の目の前でけんかになってしまうことも少なくなく、その時の悲しそうな子供達の目を今もはっきり覚えています。

4歳、5歳、6歳と絢香は、保育所で毎日平均10時間生活していました。保育所での出来事に一喜一憂する毎日でしたが、特につらかったのは、月曜日の朝、月曜日の朝、保育所に絢香を連れていき、預けて私が仕事に向かう時、後を追われる事でした。出勤時間があるため、泣かれても泣かれても絢香を保育所に預けなければならなかったときです。

平成8年4月に小学1年生になりました。人なつっこくて、好奇心旺盛で元気で積極的、まるで男の子のような女の子でした。年齢よりも身長も大きく、体重も…どちらかというと太っている方だったと思います。担任の先生からは、絢香の責任感の強さとしっかりしているところを買われてクラスの色々な仕事を任されることも少なくなかったようです。勉強にもスポーツにもとにかく一生懸命に取り組む子でした。食欲も旺盛で給食のおかわりも毎日のようにしていたようです。学校がとても楽しいらしく毎日元気に学校に通っていました。この状態は、小学3年生の頃まで続きました。
特に小学3年の頃は、小学1年から始めたピアノとお習字、町の教育委員会で行っている陸上クラブに通い、また町のスポーツ少年団のミニバスケットボールに入部したのも小学3年生の時でした。
この頃は、時間が許す限りやってみたいという気持ちにあふれていました。当時絢香はやや肥満気味でしたので特にミニバスケットは体調にあっていたせいか肉体的にも精神的にも絢香に充実感をもたらせてくれていたようです。その頃のミニバスケットチームは、小学校の全国大会に出場した上級生がほとんど卒業してしまって、経験者は1人だけ、それもその1人だけが唯一残されたクラブ員で絢香達小学3年生13人が入部した事によってやっと存続ができたチームでした。ですから小学3年生の頃は練習もミニバスケットの知識が全くなかったところから始まっておりましたから全国大会に導いた監督の元での練習でありながら、無理な練習は、ほとんどなく、毎日のミニバスケットの練習は、絢香にとって学校で勉強する事も去ることながら楽しくて楽しくてしょうがなかったようです。

しかし、小学4年生に進級してみると、練習は、日を追うごとに厳しくなってきました。もともと絢香のクラスの女子は、スポーツマンが多く、小さい頃からスポーツに親しみ、スポーツ能力に健た子供達が集まっていました。そういう子達がミニバスケットを始めたものですから、上達は目覚しく、試合を行う度、力をつけて、勝ち越す事ができるようになっていました。絢香もそれなりについていくことはできましたが、4年生に進級した6月下旬に体調をくずし、風邪をひいてしまい、40℃を越す熱が2,3日続きました。それをきっかけに度々、風邪をひくようになり、その度、練習を休むようになっていました。チームは本当に上り調子でしたから1回練習を休むだけでも試合に出られるチャンスが遠のいてしまうような状況でした。そんな時に、成長期におきるといわれている膝の炎症であるオグリット病にかかり、通院する事になってしまい、ますます、絢香にとってミニバスケットは遠い存在になってしまいました。ミニバスケットを愛し、ボールに触れて、練習をして、チームのみんなと、楽しくプレーができればいいと、試合に出れなくてもいいと思えば気持ちは楽だったのでしょうけど、練習量不足の娘ではありましたが、体格とセンスを買われて、ポジションはセンター準レギュラーということもあってその当時の学級担任でもあった監督は、絢香には素質があると常に目をかけて下さっていました。それだけに練習をしたい、試合に出たい、上手になりたいと思う気持ち、厳しい練習にもついていきたいという気持ちと、体力のなさ、体力の限界を感じる自分との狭間に立って悩んでいたのだと思います。

小学4年、5年と地区大会などの試合が数多く開催され、練習試合も月に2〜3回のペースで入っていました。絢香も調子の良い時には、選手として起用され、それなりの結果を出せる事もありましたが、調子の悪い事も多く、マネージャー的仕事をこなすこともありました。前日に明日の試合の選手が指名され、ユニフォームを渡され、さあ、明日は試合だという時に、その当日の朝になると、胃腸の調子が悪くなり、トイレから出て来れなくなってしまったり、ベッドから起きられなくなってしまったり、試合直前にこんな事が度々ありました。それでも本人は、ミニバスケットは続けたい、やめたくないと言って頑張っていました。

小学5年生の3学期には、地区の新人戦があり、センターのレギュラーとして起用され、出場しました。その当時は、栃木県内でも優勝するような実力のあるチームと対戦しましたが、見事打ち勝ち、優勝を果たす事ができました。その時の充実感に満ちた満面の笑みを今も忘れることができません。とっても感動的でした。

小学6年生に進級しました。5月の連休に東京への練習試合が入っていた日の事です。小学校への集合時間は、午前5時でした。前日をすっかり準備を整え今日の日を迎えていました。私は、3時に起床してお弁当を作り終え、まだ寝ていた娘を部屋に4時に起こしに行きました。しぶしぶでしたが何とか起きてくれました。
1時間足らずで朝の準備は、すべて整いました。玄関を出て、車に乗り込もうとしました。が、後部座席のドアの外で立ったまま、絢香は、一歩も踏み出そうとはしませんでした。
1分立ち、2分立ち、集合時刻である午前5時になりました。5分を過ぎようとしたその時、監督が家まで迎えに来て下さいました。(こういうことは、今日が初めてではありませんでした。)先生は、そーと優しくはなしかけてくれました。「どうした・・・・?具合が悪いか?体調が思わしくなければ試合を見てるだけでもいいから行こうや・・・・」絢香は、うなずくことも話すこともありませんでした。ただ体は、こわばり、固くなっていて、涙を流すばかりでした。10分位こんなやりをすると、先生は、「今日は、体を休めたほうがいいか?今日一日ゆっくり、体を休めて、また学校で会おうな」と言って、私にもそう目で語りかけて、自分の車でまた学校への道を戻って行かれました。
こういうことは、初めてではなかったので、今までは、私も何で練習へ行けないの、皆同じ苦しい練習に耐えているのにどうして絢香にだけそうやって弱腰なの?逃げるの?とせめてばかりいました。主人も同様でした。

そしてこの東京への練習試合に行けなくなったことをきっかけにしてミニバスケットの練習は、ほとんど行かなくなっていました。
5月の末にもなると、学校を休むと言う事も起きてきていました。
ただ学校には、楽しい行事がたくさんありましたから、修学旅行、宿泊学習運動会、オータムコンサート等この行事が近づく頃になると学校に続けて行けるという生活を繰り返していたように思います。修学旅行では班長になり、宿泊学習では、サブリーダーになり、運動会では、初めて女子で後期を持って校庭を行進するという役をいただき、オータムコンサートでも鉄琴を演奏するなど、とても意欲的に見えました。

6年生も3学期を迎えると、始業式のあった週は何とか行けたものの2週目になると水曜日と土曜日の2日だけの登校だけとなり、3週目になる先生に迎えに来てもらって(12月中は、朝先生が迎えに来てくださっていました。)月曜日から木曜日には朝学校に先生と行って20分程て帰ってきてしまうということを繰り返していました。
その頃、学校側から社会教育課に所属する登校拒否児を担当する先生の紹介を受けました。私と主人は相談して、うちらの先生にお世話になる前にカウンセラーの先生にお願いする事を決めました。

1月26日○○市のあるカウンセラーの先生は、「絢香ちゃん、そんなに苦しかったらがまんしなくてもいいよ。学校休んでもいいよ。長い人生のうちこの時間は本当に短い時間なんだから・・・」とおっしゃいました。次の週の月曜日から10日くらいの間学校には行かなくなりました。担任の先生もカウンセラーの先生に合わせて家に迎えにくる事を遠慮するようになっていました。
2月2日2回目のカウンセリングの日、「来週は、お母さんと学校まで行って、もし行かれなかったら帰りに今度入学する中学校を回ってもらうようにしたらどうでしょう」と言われ、次の週からこれを実行にうつしました。やはり、車で学校の校門までは行けるものの車から降りることはできず、帰りに中学校を回るということを続けていました。
2月中旬頃、この頃はまだお習字には毎週通えていました。でもこの習字さえも行きたくないと言い始めてしまいました。ミニバスケットも行かない、学校へも行かない、今度はお習字までも・・・主人はもともと短気な性格の人でしたから、感情が抑え切れなくなってとうとう絢香に対して感情を爆発させてしまいました。

その日を境に絢香は、岐阜の家の玄関に入れなくなってしまいました。「こんな家嫌だ、お父さんがこわい、お父さんなんか嫌いだ」と言って・・・絢香はその日2月9日から私の実家にて生活するようになりました。
2月の3週目から私の実家から小学校まで行き、降りられずに中学校を回ると言う日々が続きました。
2月19日(火)は中学校の説明会が行われる日でした、いつもの朝と同じように車で小学校まで行きました。クラスの女の子たちが校門のところで待っていてくれました。(こういう日は、今まで何度もあったのですが)女の子達は車のそばまで近寄ってきてくれました。いつも車の中でしたばかり見ていた絢香が頭を上げ、近寄ってくれたお友達の顔を見ることができました。友達が手招きをします。早く車から降りておいでと誘います。5分くらい経った頃でしょうか、絢香はドアに手をやり、外に出ました。担任の先生も来てくれていました。友達や先生に囲まれて絢香はとても嬉しそうでした。この日は、無事中学校の説明会に行くことができました。でも行けたのはこの日一日だけで、次の日からはまた登校できない日の繰返しとなりました。
2月16日に3回目のカウンセリングがありましたがもう行きたくないということでこの日を最後に○○市へのカウンセリングは受けに行くことはできなくなりました。
3月になりました。一日〜7日までには小学校の中庭まで車で行くことはできましたが車から降りることはできず、中学校を回って帰りました。
8日の日は謝恩会でした。この日は、車から降りられ、出席することができました。
あくる日9日は、卒業記念旅行でした。8日の日の謝恩会がとっても楽しかったらしく、この日の夜は、旅行の準備にいそしみ、明日いけるかどうか自分の中でとっても不安であったようですが9日の当日は、卒業記念旅行に行くことができました。でも帰ってくると、とっても楽しかった様子ではあるのですが、それ以上に疲れたらしく、私が「今日は旅行に行けてよかったね。楽しかった?」と聞くと「・・・・とっても疲れた。」と答え、あまり話さなくなってしまいました。
3月3週目からまた、行けない日々がつづきました。
そしてとうとう3月19日小学校卒業式の日、前日全て準備を整えて臨みましたが、制服を着て小学校まで車で行きましたが中庭に置いた車からとうとう降りることはできず、お友達も何人か来てくれましたが顔を上げることはできず、ただ涙を流すばかりでした。仕方なくそのまま私が実家に連れ戻り、本人が落ち着くのを待って、午後から卒業式に手渡されるはずであった修了証書を受け取りにお母さんだけでも来て下さいと小学校から言われていることを話し、一緒に行けるかどうかの確認をしました。すると少し考えると小さな声で「私もいっしょに学校へ行きたい」と言ってくれました。校長室で校長先生をはじめとする諸先生方に見守られ、たった一人の卒業式をさせていただき、本人はもちろんのこと担任の先生も私も涙が止まりませんでした。

こうして春休みに入り、絢香は中学校入学の準備を始めていました。
4月1日入学式の日、中学校へ行く事はできませんでした。
そして4月8日入学式当日を迎えました。準備は前日までに全て整っておりました。式に出席する事ができました。この日は、今までのことがふっきれたかのように、笑顔が絶えずにとても楽しそうでした。
9日、10日、11日…とこの一週間は毎日楽しそうに自転車で学校に通い、帰ってくると学校であったことをうれしそうに話してくれました。そして学級委員長に立候補して任されることになったので、このクラスは自分が引っ張っていくんだと言って目を輝かせていました。
中学入学を果たし、初めての土曜日、日曜日がやってきました。あけて月曜日になりました。身支度を整えて自転車でさあ出発というところで絢香の体の動きは止まってしまいました。
火曜日も自転車のところまで言ってヘルメットまでかぶってもペダルを踏む事ができませんでした。(この初めての土、日を利用して絢香は私の実家から岐阜の家に戻りました。)それでもまだ学校に行きたい、学校へ行かなければ・・・・という気持ちがまだ頭のどこか体のどこかに残っていたのでしょう。
水曜日は、学級委員としての仕事があるからと言って、いつもより30分くらい早く学校へと向かいました。
木曜日も続けて学校へ行く事ができました。
金曜日この日からまた学校へ行けなくなってしまいました。この日は、この日に学校へ行かなければ、学級委員の仕事があるからクラスのみんなに迷惑をかけてしまう。だから絶対行かなければいけないと口にしながら、体が言う事を聞かず、休むことになってしまいました。この日は、かなり落ち込んでいるようでした。
4月3週目、4週目と休んでしまいました。
4月28日、私は、新宿のあるカウンセラーの先生を訪ねてみることにしました。そこで今、子供さんは、自分に自信が持てなくなっていて、生きる力が弱くなっている事を言われ、毎日子供の良い所を書き続ける事を勧められました。最初は、私が書いておりましたが、そのうち主人が代わって書くようになり、私も主人も子供の良いところだけを見つめるように努め、その良い所を伸ばせるよう努力してまいりました。そうしていくうちに、主人について言えば、「お父さんは嫌い」と言っていた娘がその言葉を口にすることがなくなり、父親と絢香との距離が縮まってきているようです。私はと言えば、何事においても感情的に行動する事が少なくなり、主人とのけんかもほとんどなくなりましたそして何より、娘のことを真剣に考えるようになりました。何としてでも絢香を救ってあげたい、学校に通わせてあげたいただその一念につきる思いです。

絢香は、学校を休むようになってから毎日と言っていいくらいパソコンにむかいます。パソコンからあるサイトを開いて毎日自分の書いた絵を投稿しています。その絵にコメントを下さる同世代の友達と話を、会話を交わしています。中学校の登校を拒否し始めた4月頃と比べると、どんどん外出もするようになりましたし、話しをすることも多くなり、落ち込む事が少なくなりました。家族でショッピングに出掛けたり、カラオケに行ったり、8月からは近くのプールに家族四人で通い始めました。(絢香が運動不足で太り気味のため)
絢香は、夢を持てるようになり、将来アニメーターになりたいということで、デッサンの本を買って読んだり、代々木アニメーション学院の体験入学に参加したりと少しずつ生きる力が湧いてきているように思います。代々木アニメーション学院の先生にも「まだ中学1年生、今は、色んな経験を積んでできれば高校を卒業してから、一般教養を身につけてから、アニメーターを目指してここに入学してみては…」とアドバイスを受け、本人も中学校、高校はきちんと卒業してからアニメーターになるため、代々木アニメーション学院に入学したいと私に話してくれました。だから二学期からは学校に行くよ…と私に話してくれました。
9月3日、2学期始業式、朝6時に声をかけましたがどうしても起きることができず、登校することはできませんでしたが午後から3時間ほど見学する事ができました。クラスメイト達がたくさん絢香に気がついて集まって来てくれました。久しぶりに見る絢香の笑顔に涙してくれる友達もおりました。運動会が終わり、家に帰る車の中で絢香がぽつりと私に言いました。「今度はここの学校祭に行きたい」と。このままだったら今日運動会に来ることができたように見学はできるかもしれない。でも学校祭の様々なイベントに参加する事はできない。学校祭に出品する作品作りもできない。そんな気持ちが私の中に生まれました。…そう思うといても立ってもいられなくなりました。
思い起こせばあの運動会の翌日、学校への登校に間に合う時間である朝6時に目覚ましがセットしてありました。でも登校することはできませんでした。絢香は、1日も早く学校に登校したいと心から願っているのだと思います。でも体と心がまるで別人のように、心が思うようには体が動いていくれないのだと思います。私は絢香を1日も早く学校に戻してやりたい、中学校で1つでも多く思い出を作ってもらいたい。…そう願ってペンを取りました。

そこで現在の絢香をとりまく環境や状況を話したいと思います。
私は○○課に勤務しており、去年の12月頃から今年8月頃までとても忙しく、残業も少なくありませんでした。9月から11月頃までは比較的安定した仕事量になり、5時30分頃には帰宅できる時期に入ります。
主人は同職場の○○課に勤務しております。
義父、義母は農業を営んでおり、梱包の時期である春や、稲刈りの時期である秋は、とても忙しくなります。近くに私の実家や、主人の姉の家等があり、絢香は、時折遊びに出掛けたり、泊まって来たりしています。
また5歳年上の姉とは、いつも仲が良く、買い物などに出掛けます。家族4人一緒にカラオケやキャンプにも出掛けることも多く、最近は、家族でスイミングスクールに通っています。
絢香の友人関係については、小学校時代からクラスメイトであり、部活動仲間であった1人の女の子と中学校でも同じクラスになり、その子から学校の様子を伝えてもらったり、ショッピングに出掛けたりしています。また夏休み中に2〜3人の友人から励ましのお手紙をいただきました。運動会の前日には雨の降る中4人の友人が家を訪れて下さり、運動会のプログラムハチマキ、応援のうちわ等届けてくれました。(絢香は突然のことでもありましたので心の準備ができないらしく会いに行くことはできませんでした。)
学校の対応としては、4月下旬に私で中学校へと出向き、担任の先生、副担任、学校主任3名の先生方と絢香の性格や今までの小学校生活の状況などを交え、これからどうやって登校できるようにしていったら良いかを話し合いました。結果、登校を強制することにより、プレッシャーをかけるより、本人の登校するという意欲をうまく引き出していけるように見守る姿勢をとることになりました。
5月上旬に2回目の話し合いを行い、近況報告を交え、このまま見守る方向でよいか再度確認をしました。もうしばらくこのままで様子を見るということで学校を後にしました。
5月中旬家庭訪問がありました。担任の先生が来て下さいましたが、絢香は、部屋からできませんでした。
5月下旬3回目の話し合いを持ちました。学校側からフリースクールなるものがあることを聞かさせました。公的機関が運営しているスクールもあって、通えれば出席日数として扱っていただけるとのことでもしも本人にその気があるのならすぐにでも手続きをとって下さるとのことでした。そして絢香の意思を確認しますと自分と同じ様に登校拒否になっている子供達が通う所であるのならどんなところなのか1度見学に行きたいとのことでしたのですぐに学校に連絡をとり、書類を用意していただきました。そして担任の先生から直接本人に説明した方が得策だろうということで絢香は中学校へ行くことになりました。
約束した夜7時、中学校の駐車場までは行けたのですが車から降りることができず、結局説明も受けられないままフリースクールへの登校はできなくなってしまいました。学校で配られるプリントや期末テストの問題などまたツベルクリン、心臓検診の通知など担任の先生が2〜3週間毎自宅に届けてくださいました。
7月19日終業式には、夏休みに向けての様々なプリントや夏休みの宿題、通知表など届けてくださいました。担任の先生には、何度となく足を運んでいただきましたが絢香は部屋から出てくることはなく会う事はできませんでした。夏休み中は、二度程担任の先生から電話連絡がありました。また学校を休むようになってから毎日7時30分に担任の携帯電話に欠席の連絡を入れ、毎日絢香の様子を伝えています。

次に絢香の性格についてですが、積極的で責任感が強く負けず嫌い、物事に対して常に完璧を求める傾向があります。例えば学校で50問の漢字テストがあるとします。テストの前日は学校から帰ってくると50問全部書けるようになるまで繰返し、繰返しノートに漢字を書き込んでいきます。そして全部書けるようになった時点で床に就きます。(親がもう遅いからと言葉をかけても夜中12時を過ぎようと覚えるまでは寝ないのです。)テスト当日の朝は、いつもの時間よりも早く起床し、50問の漢字すべてのおさらいをします。できたらランドセルの中身チェックをして学校へ行きます。こういう状態が去年12月、6年生の2学期終了時まで続きました。
また感受性が強くて、涙もろく、困っている人を見かけると放っておけず手助けをする、常に人の身になって物事を考ええる、そういった反面、自分の中で確信しているものに関しては、他人の意見を取り入れようとはしないようなある意味自己中心的なところも見られます。どちらかというと男の子に生まれて来たかったなどと時折口にするような子供で小学校の上級生になったら運動会で応援団長をやりたいと意気まいていた時期もありました。それでいて読書など本(レ・ミゼラブル、アンネの日記、ハリーポッター等)を読む事が好きで、校長先生から1年間クラスで1番たくさん本を読んだ子に送られる『多読賞』なるものを毎年いただいておりました。
男の子、女の子関係なくクラス全員誰とも気軽に話をするタイプで、率先して学級委員等を引き受ける子供でした。(中学校へ入学したら生徒会の役員に立候補してみたいとも話しておりました。)ただ、親しい友人を作ってもいつも一緒に行動する・・・ということは好まないらしく、悩みがあった場合に打ち開けて相談にのってもらえるような親友と呼べる友人はいなかったと思います。
現在、特に病院などには通院しておりません。(登校拒否症状になってからも一度も専門の病院への通院はいたしておりません。)ただ登校拒否などを扱っているカウンセリングは受けた事があります。(本人へのカウンセリングは、回数にして3回ほど受けております。)主人と私は、まず、親が変わらなければいけないと思いましたので現在もカウンセリングを受けております。親は親なりに現在できることはないかと努力しているつもりでいるのですが、子供は未だに登校することができません。
本人は、先生に会いたくないとかお友達に会いたくないとか、勉強がやりたくないとかこういった理由で学校に行けないのではないかと私たちに話します。いざ朝、学校へ行こうとすると心臓がドキドキしてきて、目の前が真っ白になってしまって、体も動かなくなってしまうのだそうです。こんな娘を親として、どうやって救ってあげたらいいのか毎日思い悩む日々を過ごしております。娘を1日も早く学校に戻してやりたい、楽しい学校生活を味あわせてあげたい。思い出を作ってもらいたい・・・。毎日毎日それだけを願っております。
長田先生、どうぞ先生のお力をお貸し下さい。宜しくお願いいたします。
乱筆乱文お許し下さい。
宮崎幸子

家族構成について
「父」宮崎雅典44歳(会社員) 真面目で優しい人。若干父親の性格を引き継いでいる部分もある。短気。女は例え、勤務先でのつきあいでも(飲み会など)付き合う必要はないと考えている。
「母」宮崎幸子41歳(会社員) 怒りっぽい、短気、人を頼る事があまり好きではない。物事をコツコツと1人でかたづけてしまうようなところがある。
「姉」宮崎優香17歳(高校生) マイペースで穏やかな性格。思いやりのある優しい子、妹思い
「祖父」宮崎啓三76歳(農業) 戦争体験者で厳格なむかしかたぎな性格で男尊女卑を地で行くような人。短気、世話好き。女は、黙って男の後をついてくればいい、女はでしゃばるな、という感じ。
「祖母」宮崎多恵73歳(農業) 余計な事は語らず、ただ黙って働く芯の強い人。
「本人」宮崎絢香13歳(中学生1年) 祖父と父の封建的な考え方を嫌っている様です。また私のちょっとヒステリー気味なところを嫌っています。姉のことは、優しくて面倒見が良いので何かと頼りにしている様子です。

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